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裏切りのレシピ

第一章 – 焦げた記憶

朝6時、いつもの時間に目が覚めた。料理人の体内時計は簡単には壊れないらしい。仕事がなくなって2年になるというのに、毎朝同じ時間に目を開ける。

アパートの窓から差し込む光は弱々しく、6畳一間の部屋を照らしている。壁には元々白かったはずの壁紙が黄ばみ、キッチンには昨夜の一人分の食器が置かれている。

「はぁ…今日も始まるか」

五條達也、50歳。元送迎会社社長、元調理師、元IT技術者、元農業従事者。今は「元」ばかりが増えていく。

ベッドから起き上がり、小さなキッチンに向かう。冷蔵庫を開けると、わずかな食材が目に入る。玉ねぎ半分、卵3個、少しの牛乳。賞味期限ギリギリのパン。家賃滞納の通知が冷蔵庫のマグネットで留められている。

「どうせなら美味いもの食って生き延びるしかないな」

そう呟きながら、手際よくフレンチトーストを作り始めた。パンに牛乳と卵を染み込ませる。バターを弾くフライパンの音が小さな部屋に響く。

「1997年、パリのモンマルトルで食べたフレンチトーストは絶妙な焦げ加減だったな…あれに比べればこんなもの…」

焼き色が付いたパンを皿に盛り、窓際の小さなテーブルに座る。外では人々が忙しなく行き交っている。みな目的地があり、行くべき場所がある。

「あの頃は、俺にもあったんだよな…全てが」

フレンチトーストを一口かじりながら、達也は2年前に遡る記憶の扉を開けた。兄の顔が浮かぶ。あの時、もし彼の言葉を疑っていれば…

第二章 – 繁栄の日々

「G送迎サービス」は小さいながらも順調に成長していた。病院や老人ホームとの契約が次々と決まり、送迎車両は5台から15台に増えた。従業員も20人を超え、達也は初めて「社長」という肩書きの重みを実感していた。

「達也さん、A病院からまた追加の依頼が来ましたよ」

秘書の山田さんが明るい声で報告してくる。山田さんは会社設立当初からの従業員で、達也の右腕として信頼していた。

「そうか、じゃあ車両の手配を急ごう。それと、新しいドライバーの面接も進めておいてくれ」

オフィスは活気に満ちていた。電話が鳴り続け、スタッフたちは忙しそうに動き回っている。達也は満足げにオフィスを見渡した。

夕方、兄の正彦が事務所を訪ねてきた。正彦は達也より5歳年上で、大手企業の管理職として成功していた。子供の頃から頭が良く、両親からも期待され、達也はいつも兄の背中を追いかけるような人生だった。

「よう、達也。繁盛してるじゃないか」

正彦はオフィスを見回しながら言った。達也は少し照れくさそうに笑う。

「まあな。やっと軌道に乗ってきたところさ」

「すごいじゃないか。料理人からIT屋、そして経営者か。お前の適応力には感心するよ」

正彦の言葉には少しの皮肉が混じっているように感じたが、達也はそれを気にしないようにした。

「家族はどうだ?」と正彦が尋ねる。

達也は少し表情を曇らせた。半年前、妻と子供たちはオーストラリアに移住していた。長女の留学がきっかけだったが、達也の多忙さもあり、家族は彼を置いて先に行くことになった。いずれ事業が安定したら合流する予定だったが…

「元気にしてるよ。シドニーの学校にも慣れたみたいだ」

「そうか…」

正彦はコーヒーを一口飲み、急に真剣な表情になった。

「実は相談があるんだ」

その時、達也は知らなかった。この「相談」が彼の人生を崩壊させる最初の一歩になるとは。

第三章 – 毒入りの提案

「この辺りは発展性がないよ。会社を移転した方がいい」

正彦の言葉は、一見すると心配する兄の助言のように聞こえた。

達也のオフィスは市の東側、古い商業地域にあった。家賃は安かったが、建物は老朽化し、駐車場も狭かった。

「新しい開発区域があるんだ。市の西側、高速道路のインターチェンジの近く。物流の中心になる予定で、送迎業なら立地は最高だよ」

正彦はテーブルに地図を広げ、熱心に説明した。

「賃料はここより少し高いけど、新築だし、スペースも広い。何より将来性がある」

達也は地図を見ながら考え込んだ。確かに現在のオフィスは手狭になってきており、車両の駐車場確保にも苦労していた。

「でも、移転費用がかかるし、取引先への影響も…」

「俺が少し出資してもいいぞ。それに、新しい場所なら大きな病院や施設も近くにできるらしい。先に移っておけば有利だ」

正彦の言葉は理にかなっていた。達也は少し迷ったが、事業拡大のチャンスかもしれないと考え始めた。

「検討してみるよ。ありがとう」

その夜、達也は遅くまでパソコンの前に座り、移転計画を練った。収支予測、必要な設備、スタッフへの影響、全てを計算した。IT時代の経験が役立つ瞬間だった。

翌朝、山田さんに相談すると、彼女は少し躊躇した様子を見せた。

「西側ですか…確かに発展しているエリアですが、まだインフラが整っていないところもあります。それに現在の取引先からは遠くなりますし…」

「そうだな。でも将来を考えると、いずれは移らないといけないかもしれないんだ」

山田さんは何か言いたそうだったが、最終的には頷いた。

数日後、達也は正彦と一緒に新しいオフィス候補地を見に行った。確かに建物は新しく、スペースも広い。駐車場も十分確保できる。しかし、周辺はまだ開発途上で、約束された大型施設の姿はなかった。

「ここはまだ工事中だな」と達也が言うと、正彦は自信たっぷりに答えた。

「1年以内に全て完成するよ。それまでに先行して移転しておけば、一番乗りのアドバンテージがある」

達也は迷いながらも、兄の言葉を信じることにした。子供の頃から、正彦は家族の中で「賢い方」だった。彼の判断なら間違いないはずだ…

第四章 – 揺らぐ基盤

移転の決断から2ヶ月、新しいオフィスでの業務が始まった。内装工事、設備の移動、スタッフの通勤調整、全てが予想以上に時間とコストを要した。

「社長、新しいオフィスは確かに綺麗ですが、電話回線がまだ不安定です」

システム担当の佐藤が報告する。インターネット環境も時々切断され、業務に支障をきたしていた。

「それと、近隣住民からの苦情が…」

山田さんが心配そうに言う。新オフィス周辺はまだ住宅地が残っており、早朝から出発する送迎車両のエンジン音に対して苦情が来ていた。

達也はため息をついた。「しばらくの辛抱だ。この地域も開発が進めば理解してもらえるだろう」

しかし、問題はそれだけではなかった。既存の取引先からは「遠くなって不便」との声があり、いくつかの契約更新が危ぶまれていた。新規顧客の獲得も思うように進まず、収支バランスが崩れ始めていた。

ある日、達也が残業していると、財務担当の鈴木がそっと部屋に入ってきた。

「社長、率直に言わせていただいてもよろしいでしょうか」

達也は顔を上げ、頷いた。

「このままでは資金繰りが厳しくなります。移転費用に加え、新オフィスの賃料が予想より高く、売上も伸び悩んでいます」

達也は眉をひそめた。確かに資金繰りは厳しかったが、ここまで悪化しているとは思わなかった。

「売上を上げるしかないな。新規顧客の開拓を急ごう」

「それが…」鈴木は少し言いづらそうに続けた。「この地域の開発計画が遅れているようです。予定されていた大型施設の建設も保留になったという噂があります」

達也は動揺を隠せなかった。正彦が言っていた開発計画が遅れているとすれば、先行投資の意味がなくなる。

「確認してみる」と短く答え、達也は市の都市計画課に問い合わせた。返ってきた返事は最悪だった。

「西地区開発計画は経済状況により見直しが入り、少なくとも3年は遅れる見込みです」

その晩、達也は正彦に電話した。

「開発計画が遅れているらしいぞ。市役所に確認したら、最低でも3年は遅れるとか」

電話の向こうで正彦は少し間を置いてから答えた。

「そうか…残念だな。でも長期的に見れば、その地域の価値は上がるはずだよ。辛抱強く待つしかないだろう」

達也は何かがおかしいと感じた。正彦の声に焦りがない。まるで…予想していたかのような冷静さだ。

「兄さん、本当にこの移転が正しかったと思うか?」

「ビジネスにリスクはつきものだろう。お前ならやり遂げられるさ」

電話を切った後、達也は暗い気持ちで帰路についた。車のラジオからは経済ニュースが流れていた。

「最近の不動産市場は冷え込みが続いており、特に郊外の開発計画は多くが延期や中止になっています…」

達也はハンドルを強く握りしめた。何かがおかしい。非常に、おかしい。

第五章 – 崩れる城

移転から4ヶ月目、達也のオフィスに一通の書類が届いた。差出人は正彦だった。

「役員辞任届」

達也は目を疑った。正彦は会社設立時に名目上の役員として名を連ねていたが、実質的な経営には関わっていなかった。なぜ今、突然辞任するのか。

電話をかけても繋がらない。翌日、正彦の自宅を訪ねると、家政婦が出てきた。

「正彦様は昨日、海外出張に出られました。1ヶ月ほど戻られないとのことです」

突然の辞任、海外出張…何かがおかしい。達也は不安を感じながらオフィスに戻った。

オフィスでは異変が起きていた。スタッフの間で緊張した空気が流れ、普段より静かだ。達也が部屋に入ると、会話が途切れる。

山田さんが慌てた様子で近づいてきた。

「社長、お話があります。銀行から…」

達也は固まった。銀行。移転に際して、正彦の保証で融資を受けていた。

銀行との面談で判明したのは、正彦が連帯保証を突然取り下げたことだった。理由は「会社経営への関与がなくなったため」。結果として、銀行は融資条件の見直しを求めてきた。

達也は銀行から出た後、車の中で頭を抱えた。なぜ正彦はこんなことをするのか。何か裏があるのか。

翌日、さらに衝撃的な知らせが届いた。複数のスタッフが一斉に退職届を提出したのだ。中には主要なドライバーや、営業担当も含まれていた。

「どういうことだ?」

達也が尋ねると、退職するスタッフの一人が答えた。

「実は…他の会社からオファーがあって…」

「他の会社?どこだ?」

スタッフは目を逸らした。「新しく設立された送迎会社です…社長のご兄弟が…」

達也は息が止まりそうになった。正彦が新会社を設立し、彼のスタッフを引き抜いていた。兄は彼を裏切ったのだ。

事態はさらに悪化した。主要取引先からキャンセルの連絡が相次いだ。理由は「新会社との契約に切り替えるため」。まるで計画されたかのように、会社の基盤が崩れていった。

達也は残ったスタッフを集め、状況説明を試みた。しかし、動揺と不安は隠せなかった。

「私たちはこの危機を乗り越えられます。まずは残った契約を守り、新規顧客の開拓に…」

言葉が虚しく響く。スタッフの目にも諦めの色が見える。

ある夜、達也が一人でオフィスに残っていると、山田さんが戻ってきた。彼女は泣きながら真実を話した。

「実は…数ヶ月前から正彦さんが私たちに接触していました。新会社の話、取引先の引き抜き…全て計画されていたんです」

「なぜ教えてくれなかった?」

「脅されていました。『協力しなければ、達也の会社は確実に潰れる。その時、君たちの居場所はなくなる』と…」

達也は呆然とした。兄は最初からこれを計画していたのだ。会社の移転も、全ては彼を弱体化させるための罠だった。

「なぜ…今になって」

山田さんは涙を拭いた。「私…もうあちらでは働けません。あまりにも酷いことをしているので…」

達也はデスクに座り込んだ。何もかもが崩れていく感覚。長年信頼していた兄、共に会社を育ててきたスタッフ、全てが幻だったのか。

雨の音が窓を打つ。達也は窓の外を見つめた。新オフィスから見える景色は、まだ工事中の更地と、遠くに見える古い住宅街。約束された「発展」の兆しはどこにもない。

第六章 – 陰謀の全貌

山田さんからの告白は氷山の一角に過ぎなかった。彼女の助けを借りて、達也は少しずつ真実を掘り起こしていった。

「正彦さんは1年前から準備を始めていたようです。最初は送迎業界の調査から」

山田さんは彼女が集めた情報を達也に見せた。正彦のメールの印刷物、会議のメモ、スケジュール表。全てが緻密な計画を示していた。

特に驚いたのは、移転先の物件に関する情報だった。正彦は不動産会社と結託し、実際より高い賃料で契約させていた。その差額は正彦のポケットに入っていたのだ。

「開発計画の遅延も、市の内部情報として事前に知っていたようです。にもかかわらず、あえてこの場所を勧めた…」

達也は手元の書類を見つめた。「なぜここまでするんだ…」

山田さんは躊躇いながら答えた。「噂では…正彦さんの会社が業績不振で、彼自身が資金難だったとか。送迎業界が今後成長すると見込んで、既存の基盤を持つ会社を乗っ取る方が早いと考えたのでは…」

達也は皮肉な笑みを浮かべた。「俺の会社を乗っ取るには、まず弱らせる必要があった…だから移転を勧め、資金を使わせ、そして主要スタッフと取引先を奪った…」

山田さんも頷いた。「さらに、銀行融資の連帯保証を外したのは、会社を窮地に追い込むため。破産したら、資産を安く買い取れると…」

「完璧な計画だな」達也は呟いた。「兄さんらしい…常に一歩先を読む…」

続く日々、達也は必死に会社の立て直しを図った。残ったスタッフと共に顧客訪問を重ね、新規開拓に走った。銀行とも再交渉し、なんとか融資条件の一部緩和を取り付けた。

しかし、傷は深すぎた。顧客の多くは戻らず、新規開拓も思うように進まない。スタッフもさらに減り、資金繰りは悪化の一途をたどった。

ある日、達也がオフィスに着くと、見知らぬスーツの男性が待っていた。

「五條達也様ですね。私、正彦様の代理人弁護士の佐々木と申します」

達也は硬い表情で対応した。「何の用件だ」

佐々木は冷静に書類を取り出した。「正彦様が御社の債権を購入いたしました。返済計画の見直しについてご相談に」

達也は怒りに震えた。兄は彼の債権まで買い取ったのだ。完全に追い詰めるつもりだ。

「兄に伝えてくれ。こんな卑怯なやり方で何を得たいのか、直接聞きたいとな」

佐々木は淡々と答えた。「正彦様は現在、海外におられます。直接の面会は難しいでしょう」

その夜、達也は閉店した喫茶店の元オーナーの友人を訪ねた。かつて彼から珈琲の淹れ方を学んだ岡本さんは、達也の話を静かに聞いた。

「商売の世界は厳しいよ。特に家族となるとね…」

岡本さんはゆっくりとカップにコーヒーを注いだ。

「このコーヒー、エチオピアのイルガチェフェ、標高1,950メートルで育った豆さ。洗練された酸味と複雑な風味が特徴なんだ。人生みたいにね」

達也はコーヒーを飲み、わずかに微笑んだ。「俺の人生も今、かなり複雑な風味になってるよ…」

岡本さんは真剣な表情になった。「達也くん、時には降参することも知恵だよ。全てを失うより、一部を守る選択も必要だ」

「降参…か」

達也は窓の外を見つめた。雨が再び降り始めていた。

第七章 – 自由落下

会社の経営危機は加速度を増していった。銀行からの督促状、取引先からのクレーム、給料遅配によるスタッフの不満…全てが達也を追い詰めた。

「社長、このままでは車両のリース料も払えません」

財務担当の鈴木が最後の忠告をした。達也は机に広がる赤字だらけの収支表を見つめた。

「わかった…」

その日、達也は弁護士に相談し、会社の破産手続きを進めることを決めた。正彦の計画通りになる…それが最も苦しかった。

破産手続きが始まると、事態は予想以上に厳しくなった。連帯保証人として、達也個人の資産も対象となったのだ。家、車、貯金…全てが失われていった。

妻からの電話は冷たかった。

「私たちはこちらでやっていくわ。子供たちのことを考えると…あなたと一緒にその苦労はできない」

オーストラリアからの離婚協議書も届いた。達也は呆然と書類を眺めた。一度に全てを失うとはこういうことか。

会社の清算手続きが進む中、最後の打撃が訪れた。正彦の新会社が破産したG送迎サービスの資産を格安で買い取ったのだ。車両、顧客リスト、そして「五條」の名前まで…

友人の岡本さんが達也を助けてくれた。彼のアパートの一室を格安で貸してくれたのだ。荷物をほとんど失った達也にとって、6畳一間は十分すぎる広さだった。

「料理の腕はまだあるだろう?コックとして働けば?」と岡本が提案した。

達也は苦笑いした。「50歳のコックなんて誰が雇うんだよ…」

それでも、岡本の紹介で小さな定食屋の臨時ヘルプとして働き始めた。給料は安く、シフトも不安定だったが、なんとか家賃を払えるだけの収入はあった。

調理場に立つと、達也は少しだけ自分を取り戻した気がした。包丁を握る手には迷いがない。食材を切り、炒め、盛り付ける…全てが正確で無駄がない。

「五條さんのチャーハン、絶品ですよ!」と店主が褒めると、達也は照れくさそうに笑った。

「1985年、香港の屋台で見た技をちょっと真似てるだけさ。火力の調整と餡の入れ方がポイントなんだ」

しかし、料理の腕前とは裏腹に、日々の生活は厳しさを増していった。債権者からの取り立て、信用情報の悪化による新たな借入の困難さ…達也は少しずつ社会の隅に追いやられていった。

ある日、スーパーで買い物をしていると、見覚えのある顔とすれ違った。かつての社員、山本だ。達也が声をかけようとすると、山本は慌てて目をそらし、小走りに立ち去った。

「あぁ…そういうことか」

社会的死。達也はそれを実感した。かつての知人や取引先は彼を避け、連絡も途絶えた。「失敗者」というレッテルが、目に見えない壁を作り出していた。

その夜、達也はアパートの小さなキッチンでパンを焼いた。

「発酵が足りないな…こんなものじゃダメだ」

何度も失敗し、夜中の3時になっても完璧なパンは焼けなかった。達也は床に座り込み、頭を抱えた。

「全部無くした…会社も、家族も、名誉も…俺には何が残ってるんだ…」

静かな部屋に、パン生地を捏ねる音だけが響いていた。

第八章 – 灰の中から

破産から1年が過ぎた。達也は今では定食屋の正社員として働いている。給料は以前の10分の1以下だが、技術を認められ、料理長として厨房を任されるようになっていた。

「五條さん、この味付け、絶妙ですね」

若い調理師が達也の作った煮物を褒めた。

「当たり前だ。1992年、京都の老舗料亭で食べた煮物の味を20年かけて研究してきたんだからな」

達也はそう言いながらも、少し照れた様子で次の調理に取りかかった。

休日、達也は小さなノートパソコンで情報を集めていた。正彦の会社の動向、業界の状況…全てを細かくチェックしている。

「やはりな…」

情報を整理すると、ある事実が浮かび上がってきた。正彦の会社も思うように成長していないのだ。むしろ業績は停滞し、噂では資金繰りに困っているという情報もある。

「皮肉な結果だな…俺を潰してまで手に入れたビジネスが、彼の思い通りにならないとは」

達也は苦笑した。しかし、復讐心は徐々に薄れていた。今は自分の生活を立て直すことが優先だった。

ある日、岡本さんが達也のアパートを訪ねてきた。

「達也くん、どうだ?元気にしてるか?」

達也はコーヒーを淹れながら答えた。「まあな、生きてるよ」

岡本はソファに座り、達也の淹れたコーヒーを一口飲んだ。

「おお、これは…ブルーマウンテン?いや、ちょっと違うな…」

「ケニア、キリニャガだよ。酸味と甘みのバランスが絶妙だろう?」

達也は少し誇らしげに答えた。コーヒーに関する知識は、かつて喫茶店を経営していた時のものだ。

「達也くん…実は話があってね」岡本が切り出した。「私の知り合いが小さなカフェをオープンするんだ。料理長を探してるんだが、興味ないか?」

達也は驚いた。「俺が?でも…破産者だし、年齢的にも…」

「彼はそんなこと気にしない人だよ。君の料理の腕だけを評価している」

その夜、達也は久しぶりに眠れない夜を過ごした。カフェの料理長…再び厨房を任される立場に戻るということだ。

翌日、岡本の紹介で高橋というカフェオーナーと会った。彼は40代前半の穏やかな男性で、達也の過去についても全て知った上で話を進めてくれた。

「五條さんのような経験豊富な方に来ていただけるなら、こちらとしては願ってもないことです」

達也は感謝しながらも、正直に話した。

「でも、私は破産者です。信用情報にも傷がついています。それでも…」

高橋は笑った。「私の父も事業に失敗したことがあります。だからこそ、再起を図る人の気持ちがわかるんです」

契約は順調に進み、達也は2週間後からカフェ「ルナール」の料理長として働き始めることになった。給料は前の定食屋より良く、何より料理の裁量権が与えられたことが嬉しかった。

カフェに立つ前日、達也は小さなキッチンで一人、フランスパンを焼いた。今回は完璧な出来だった。

「新しいスタートの印に…」

パンの香りが部屋に満ちる中、達也は窓から見える夜景を眺めた。どん底から、少しずつ這い上がる感覚。それは苦いようで、どこか甘い。コーヒーのように。

第九章 – 小さな復活

カフェ「ルナール」での仕事は、達也に新しい生きがいをもたらした。厨房を任され、メニュー開発にも携わることができる。以前のような経営の重圧はなく、純粋に料理に向き合える環境だった。

「五條さん、このキッシュ最高です!お客様から絶賛の声が」

若いウェイトレスが厨房に報告に来る。達也は黙って頷きながら、次の料理に取りかかった。

「このキッシュはな、1988年にアルザス地方で食べたものを参考にしている。現地の家庭料理で、秘密は生地の配合と焼き時間の調整にあるんだ」

達也のこだわりは料理だけでなく、食材の選定にも表れていた。近隣の農家から直接仕入れる野菜、厳選された肉や魚…全ての食材に物語があり、それを料理に反映させた。

カフェは徐々に評判を呼び、常連客が増えていった。特に達也の作るパンとケーキは人気で、「テイクアウトできないか」という要望も多かった。

高橋オーナーは達也の提案を積極的に採用した。「パンの販売コーナーを作る」「季節限定メニューを導入する」「コーヒー豆の販売も始める」…全て達也のアイデアだった。

「五條さんのおかげで、売上が3割も増えましたよ」

高橋はある日、達也に告げた。達也は少し照れくさそうに頭を掻いた。

「俺はただ自分の経験を活かしているだけさ。ITや農業、送迎業…全ての経験が今、役立っている気がする」

確かに、達也の多様な職歴は強みになっていた。ITの知識を活かしてカフェのウェブサイトを改善し、農業の経験で食材調達のネットワークを広げ、送迎業で培った顧客対応のノウハウでスタッフ教育を行った。

「五條さん、何でもできるんですね」と若いスタッフが感心すると、達也は苦笑した。

「いや、できないことの方が多い。例えば…家族を守ることとか」

達也の胸には今も家族の喪失感があった。オーストラリアの元妻とは正式に離婚し、子供たちとも疎遠になっていた。時々メールを送るが、返事はほとんどない。

ある日、カフェの常連客である中年女性が達也に話しかけてきた。

「いつも美味しい料理をありがとうございます。実は…私、あなたの以前の会社のサービスを利用していたんです」

達也は一瞬固まった。過去の記憶が蘇る。

「そうですか…ご迷惑をおかけしたかもしれません」

女性は優しく微笑んだ。「いいえ、とても良いサービスでした。突然なくなって残念に思っていました。あなたがここで料理人として働いていると知って、嬉しくなって」

達也は久しぶりに、過去の仕事に対する誇りを感じた。全てが無駄ではなかったのだ。

帰り道、達也は久しぶりに遠回りして、かつてのオフィスがあった場所を訪れた。建物はそのままだが、今は別の会社が入っている。看板には「G送迎」の文字はない。

少し離れた場所に、正彦の会社の看板が見えた。「新G送迎サービス」…しかし、駐車場には数台の車両しかなく、オフィスの明かりも暗い。

「やはり上手くいってないようだな…」

達也は複雑な気持ちで空を見上げた。復讐心より、どこか安堵に近い感情。自分だけでなく、正彦も思い通りにはならなかったという事実に。

アパートに戻り、達也は小さなノートパソコンを開いた。メールをチェックすると、長女からの短いメッセージが届いていた。

「お父さん、元気ですか?私は大学に合格しました」

たった一行だが、達也の目には涙が浮かんだ。完全に切れていたわけではなかったのだ。

その夜、達也は久しぶりにブログを更新した。「料理人の独り言」というタイトルのブログには、料理のレシピや食材の話、時には人生哲学も綴られていた。

「失敗は最高の調味料」という題で、彼は書き始めた。

「料理もビジネスも人生も、失敗なしに完成することはない。大切なのは、その失敗をどう料理に活かすか…」

窓の外では満月が輝いていた。小さな部屋の中で、達也は静かに微笑んだ。

第十章 – 人生のレシピ

カフェ「ルナール」での仕事を始めて1年半が過ぎた。達也の料理は地元で評判となり、小さな雑誌に取り上げられることもあった。

「五條さん、インタビューの依頼が来ています」

高橋オーナーが嬉しそうに告げた。地元のフリーペーパーが「隠れた名シェフ」として達也を特集したいというのだ。

「断ってくれ」達也はあっさり答えた。「俺なんかより、このカフェ自体を取り上げてもらった方がいい」

達也は表舞台に立つことを避けていた。過去の傷跡もあるが、それ以上に、今の静かな生活に満足していたからだ。

しかし、高橋の懇願で、最終的には顔を出さない条件でレシピと料理哲学だけを紹介することになった。

「私の料理哲学は単純です。失敗から学び、素材を活かし、食べる人の幸せを考える。それだけです」

達也のインタビュー記事は反響を呼び、カフェはさらに忙しくなった。高橋は喜んでいたが、達也は少し心配していた。

「規模を拡大するつもりはないよな?」と達也が尋ねると、高橋は笑った。

「ご心配なく。私も前のオーナーが急拡大して失敗した店で働いていましたから、その教訓は忘れていません」

ある日、達也がキッチンで働いていると、高橋が慌てた様子で入ってきた。

「五條さん…あの…お客様が」

達也が不思議に思って厨房から顔を出すと、カウンター席に見覚えのある男性が座っていた。正彦だ。

達也は一瞬、呼吸が止まりそうになった。2年ぶりの対面。兄の姿は以前より疲れて見え、髪にも白いものが増えていた。

「お久しぶり」正彦が言った。「うわさを聞いて来てみたよ。素晴らしいカフェじゃないか」

達也は無言で正彦を見つめた。憎しみ、怒り、悲しみ…様々な感情が胸の中でぶつかり合う。

「少し話せるかな?」正彦が続けた。「もちろん、忙しければ後日でも」

達也は高橋に一瞬目配せし、「30分だけなら」と答えた。二人はカフェの隅のテーブルに移動した。

「何の用だ?」達也は冷たく尋ねた。

正彦はコーヒーを一口飲み、「美味いな…さすが」と呟いた。そして真剣な表情で続けた。

「謝りに来たんだ。全てに対して」

達也は笑った。「今さら何を…あんたのおかげで俺は全てを失ったんだぞ」

「わかっている」正彦は頷いた。「私のやったことは許されるものではない。でも…伝えておきたかった」

正彦は自分の会社が経営難に陥っていることを打ち明けた。急拡大を図ったが、市場環境の変化や管理の問題で上手くいかなかったという。

「皮肉だな」達也は冷ややかに言った。「俺を踏み台にして手に入れた事業が、あんたの首を絞めている」

「そうだ…全て自業自得だ」正彦は素直に認めた。「達也、お前は…今幸せか?」

予想外の質問に、達也は言葉に詰まった。幸せか?以前のような富も地位も家族もない。しかし…

「幸せという言葉が正しいかはわからないが…今の生活には満足している」

達也は窓の外を見ながら続けた。「料理に集中できる。余計な重荷がない。それも一つの形かもしれない」

正彦はしばらく黙っていた。そして立ち上がる時、一枚の名刺を置いた。

「もし何かあれば…連絡してくれ」

達也はその名刺を見つめたが、手に取ることはなかった。

正彦が去った後、厨房に戻った達也は黙々と包丁を動かした。心の中には様々な感情が渦巻いていたが、料理に集中することで静けさを取り戻した。

その夜、アパートに戻った達也はノートパソコンを開き、長女にメールを送った。久しぶりの長文だった。

「今日、兄に会った。色々思うところはあるが、恨みよりも、自分の人生を生きることの方が大切だと感じた。お前たちも自分の道を歩んでほしい…」

翌日、達也はカフェで新しいメニューの開発に取り組んでいた。「再出発の味」と名付けたパスタ料理。トマトの酸味、オリーブオイルの香り、バジルの爽やかさ、そして隠し味のアンチョビ…全てが絶妙に絡み合う一皿。

「人生もレシピみたいなものかもしれないな」

達也は料理を皿に盛りながら考えた。

「材料は与えられたものを使うしかない。でも、その調理法と組み合わせは自分次第。失敗しても、また新しい材料を加えて別の味に変えられる…」

窓から差し込む陽の光が、パスタの上で輝いていた。達也は静かに微笑んだ。これからの人生がどうなるかはわからない。だが、少なくとも今は、自分の作りたい「料理」を作れている。それだけで十分だと…そう思えるようになっていた。

「さあ、次の注文だ」

達也は厨房で待つスタッフたちに向かって声をかけた。彼の表情には、かつての苦さは残りつつも、新しい希望の輝きがあった。