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自分だけ大事

自分だけ大事

紅茶の香りが立ち上る。甘く、スモーキーで、どこか遠い国の朝を思わせる香り。俺はUCCのドリップポッドに、計った2gのASHBYSの紅茶をセットし、ボタンを押した。ちょろちょろと熱湯が注がれ、ゆっくりとカップに紅茶が満ちていく。その瞬間だけは、全てを忘れられた。まるで魔法だった。

──ただ、俺に残された唯一の魔法。

会社の倉庫には、ASHBYSの紅茶が山のように積まれている。英国のブランドとはいえ、日本ではまったく無名だ。何年も前に仕方なく始めた販売だったが、ものは悪くない。いや、むしろ良い。日本ではなかなか作れないブレンドや香りを、彼らはあっさりと実現していた。

なのに、売れない。

「美味しいものが売れる時代は終わった」

そう気づいたのは、もう何年も前だった。品質だけではどうにもならない。店頭で試飲を勧めても、興味すら示さない客ばかり。カフェでメニューに載せても、誰も頼まない。「知らない紅茶は怖い」とでも思っているのか。時代が悪いのか、俺が悪いのか。

いや、もうそんなことはどうでもいい。

この先、どうするか──それが問題だ。

インバウンド?

いや、紅茶は輸入品だ。外国人観光客が日本に来て、わざわざ外国産の紅茶を買うだろうか? 抹茶は盛り上がっている。抹茶ラテ、抹茶スイーツ、抹茶の何かしら。けれど、輸入品の紅茶なんか、誰が買う?

「そうだ……日本にしか売ってないASHBYS、とか?」

いや、そんなことを考えても売る場所がないんだよ。

ただただ暗くなっていくだけ。

思考の連鎖。

解決の糸口は見えない。

誰も助けてくれない。

俺は今まで、自分の時間も金も使って、いろいろやってあげたこともあった。販路を探す手伝いもしたし、友人の店で紅茶を扱ってもらうよう頼んだこともある。でも、何も帰ってこなかった。助けを求めたとき、誰一人手を差し伸べてはくれなかった。

結局、みんな自分のことしか考えてないんだ。

「自分だけ大事」

それが、今の日本の文化だ。助け合いなんて綺麗ごと。ビジネスの世界では、誰もが「お前のために」は動かない。「俺のために」しか動かない。

だから俺も、もうそうすることにした。

自分のためだけに、ASHBYSの紅茶を売る。自分のためだけに、生きる。

「……いや、待てよ?」

脳裏に、ある考えがよぎった。

「逆に、それを前面に出せばいいんじゃないか?」

この国では、もはや「誰かのためになんて綺麗ごと」は通用しない。ならば、真正面から「これはお前のためだけの紅茶だ」と打ち出せばいい。

「自分だけ大事。自分だけ贅沢。

ASHBYSの紅茶は、お前だけのためにある。

このキャッチコピーで売れるか?

売れないかもしれない。でも、今のままでは確実に売れない。

ならば──やるしかない。

俺は、再びUCCのドリップポッドに2gのASHBYSをセットし、ボタンを押した。

ちょろちょろと紅茶が抽出される。

その香りに包まれながら、俺はゆっくりと微笑んだ。

「……さて、これからが本番だ。」